中間市・生活保護・不正受給・・・希望は失わない・・・

中間市」・・・北九州市に隣接し、その街域に、「遠賀川」という大河が貫通し、南を望めば、秀麗な「福智山」を望む、かつての筑豊炭田に存在した、屈指の炭坑町・・・炭坑の衰退・絶滅で、街の様相は一転して、嘗ての面影はない。しかし、その中の残渣が時に「悪名」を世間に晒す・・・今は、北九州のベッドタウンである。

街・・・市街は、天井側の遠賀川の東の域に沿って発展したのだが、遠賀川の西側は田園地帯・・・近代に入るまでは、黒田の殿さまの「お狩り場」だったと言われ、西側の堤防は、東側(市街地)に比べて数尺低くなっていると、小学生の頃に、父に聞かされていた。昭和28年の筑豊を襲った豪雨で、父の言葉通りに、西側の堤防が決壊・・・下流の芦屋までが、水没した・・・見事な光景だった・・・が、今は可なり変貌している。

炭坑は、大正鉱業と九州採炭の2社・・・その他にも、弱小の炭坑は存在したのだろうが、私が、この地で成長するころは、住友、大隈、三菱等に吸収されていて、その影さえも残していなかったと記憶する。また、好事家の描く、炭坑の歴史・・・明治・大正・昭和初期の炭坑跡を訪ねても、その痕跡を見つけるのは難しい・・・私の体験では・・・。少なくとも、中間市を囲む、幾つかの街・・・北九州市の一部、直方市とその周辺、田川市等の地下には、江戸時代から掘られていた「坑道」が、網の目の様に走っているはずである。勿論、古坑道には、わき水が充満しているだろうから、大きな事故を、最近は余り聞かないが・・・急激な宅地開発・・・その後に移住して来た方々には、驚きの歴史を持つ地域なのである。

「川筋・男」・・・是は、筑豊遠賀川に生きる、石炭世紀の男のことをいうのだと、少年時代を過した、中間町郊外の小さな集落の中で古老に聞かされていた。引揚者家族の貧しい少年が、唯一優しく接してくれる家族・・・特に奥さん・・・の家の縁側で、毎日の様に、本(剣豪もの)を読み、パッチンをし、ビー玉で遊びながら、おやつに頂く「饅頭」が嬉しかった。が、そこの御主人が、当時は、八幡製鉄の整備工場の職人だったが、その前身が「ご平太船」の船頭だったからである。

鉄道開通までは、石炭は、川船で運ばれていた。中間の少し上流で、穂波川英彦山川が合流し、中間町の流域に入ったところで、若松に向う川船は「町中」を流れる「堀川」に入る。この「堰」で、川船の先陣争いが起る・・・その争いに勝つのが、船頭の心意気・・・気も荒くなる、言葉も荒くなる・・・争いは、船を下りてからも続く、そして博打場でも、そして、色街では「女」を争う・・・私が、そんな大人達を知ったのは、引揚者として住む様になってからだが、父は、この中間で生れ、育っているし、母や、この地よりは多少は上品な、日鉄二瀬(現・飯塚市)の生れ・・・植民地育ちの上品な息子が生きていけるか、否か・・・心配はしたようだが、私は、その悪餓鬼の中で、新しい自分を作り上げていった。

父の父(私には祖父)は、内外の鉱山や炭鉱を渡り歩いた、いわば「山師」の様な男だった様だが、伽弱体質の父を、朝鮮窒素に就職させて肩の荷を下ろして安心したのか、程なく無くなっている。その祖母が、三人の息子を一人も坑内に働かせていない・・・大正年間・・・つまり、筑豊の炭坑の命運はもう定まったと観察していたのだと言う。
30センチの「炭層」を掘るのに、1メートル以上の坑道を掘らねばならない・・・筑豊に「ボタ山」の多い理由である。三井三池には「ボタ山」はない・・・そして、浅い坑道だから、採炭が終われば陥没する・・・だから、陥落池が多い。そして、三井三池では「炭塵爆発事故・坑内火災」が多い。しかし、筑豊の炭鉱では、事故の殆どは、「落盤と坑内出水」である。つまり、古い、記録にない坑道に当って、その中の水が掘削中の校内に流れ込み、坑夫が被災(殆どが溺死)する。

殆ど機械化が進まなかったのが筑豊炭田の炭坑だったと記述する歴史家もいる・・・その炭坑が、傾斜生産で一時的な賑わいをしたのも、昭和20年代で終り、時は、石油の時代に突入していた。炭坑の盛衰は、そのまま住民の盛衰でもある。ボタ山を切り崩して、ボタから「石炭」を選別する・・・「選炭・企業」が栄えたのもつかの間・・・街の衰退は止めようがなく、「川筋・男」の仁義も、その仁義をささえる不合理の方が顕著になり、その名残が、現在の「生活保護・家庭」の多さに繋がっているのではないかと、私は推察するが、あるいは、間違っているのかも知れない。一時は、九州北部の学校教育の刷新に貢献したと言う記憶もある・・・残念ながら、それを記した著書が見当たらないのだが・・・一次産業の衰退の悲劇が、今日なを尾を引いているのだろう。

生活保護」行政に携わる職員は、地元の出身なのだろうと想像する。何故なら、人を知らずして、民生の行政に携わることは難しいと思うから・・・それだけに、悪なる誘惑も多いだろう。歴史が現在を嵌める「陥穽」でもある。市民の半分場が、高度経済成長の末期に、北九州市の企業・社宅から移住した方々だろう。しかし、「民」のエトスは、その「歴史」を踏まえていて様には姿を消さない・・・だから、歴史の継続性を論じることもあるのだが・・・古都・博多の気風を引き継ぐ地域の人々には「飲酒運転」も、「暴力団抗争」も無縁のものだとも言われる・・・北九州も、中間市も、そんなに古い歴史を背負った地域ではない。中間市の炭坑・石炭は、瀬戸内海の「製塩」を支えたと言われるから、1901年の製鉄所建設以後の浅い歴史の北九州市に比べれば深い歴史の地域である・・・が、戦中・戦後・・・悲惨な汗を要求する国家の政策に翻弄された地域でもある。

今回事件の決着が如何様になるのか・・・しかし、地域の方々の「故郷・嫌悪」にならないことを祈りたい。
昭和24年(?)に作られた「中間中学校・校歌」の歌い出しは、「清流尽きぬ遠賀川・・・」で始まり、二番は、「地下数千に綾をなし(石炭のこと)・・・普段の努力受け継いだ・・・」と歌継ぐ、そして、三番は「桜吹雪につつまれる 春南楠(なんりょう)の花の色・・・希望を胸におい育つ・・・」と、結ぶ。この校歌で育った「私」・希望は失わない。