公共投資は全て無駄なのか?

安部ノミクスを各野党が攻撃・・・TVの時は多少元気だが、国会の代表質問の、だらしない論戦への各評論家の評価も聞かれないだらしないものだった。
私とて、安部ノミクスの成功を全面的に信じるものではないが、文明的に見て、社会が経済的に伸長し、経済規模が拡大すれば、個々の格差が広がるのは当然だと考え、その格差の中で下位に押し込まれる個人、法人・・・その両親的なものが、どれほど生き残れるか・・・それが評価というものだろうと考える一人である。全ての企業が、法人が、「生活保護」状態で安穏に生き残る社会などは、あって欲しくない・・・強いものが生き残る・・・しかし、敗者にも復権のチャンスがある・・・これは理想ろんだが・・・新しいビジネスが、敗者の朽ちた所に、敗者の腐臭を栄養に生れ、成長する・・・それが健全な社会なのだと、考える一人である。

その中で、「公共工事・投資」が、常に、悪者の如くに論じられる。先日、夕張の「映画祭」の様子がTVに放映されていた・・・夕張の現在の全貌を知る由もないが・・・メディアが報道しないのだから・・・その満席に近い「映画祭」の会場の様子に、新しい息吹を感じもした。
夕張を苦境に追いやった「箱モノ」が、如何なる理由で、沢山残存したのか・・・私には理解出来ないのだが、少なくとも、完成する度に、芸能人が、オベンチャラを言い、ダジャレを言い、地元の人々に媚を売って、その「箱モノ」を称賛したのであろう。そして、当時の地元の人々は、その軽薄な空気の中に、他人任せの「夢・幻想」を信じたのであろうと、私は、思う。

インフラ・・・箱モノが分かりやすいのだが、誰しも、「明日」の事は分からない。今日が成功しても、あるいは失敗しても、明日は明日なのである。それを他人任せで、自分達が安穏と酔生夢死を貪っていて、その幻想が、夢(ありもしなかった)と違うと騒ぐのは、愚かである。

そもそもインフラとは、遠い未来の為に実現するものの様に思えて、実が、現在の、目の前の状況の活性の為のものである。それは、ピラミッド、万里の長城奈良の大仏・・・あるいは、幾多の権力が、権力の維持の為に建造し、そして「灰・廃墟」にした、歴史の中に埋もれた「インフラ」に共通するものである。
壮大なインフラ建造の姿に、明日の夢を託している様では、その権力は崩壊するであろうし、国家は衰亡するだけである。

その意味、戦争もインフラである。金本位制の井上財政から、金本位制から離れた高橋財政・・・その先に遭ったのが、戦争への「道」だった。今、円安がドイツ等の警戒を惹起している理由も、この時代の日本への警戒なのだろうと思うが、それは、その政策で、一時的に回復するであろう「経済」の中で、生きる国民の覚悟でなければならない。

デフレ脱却の再興の手段は、軍備拡張・他国侵略である・・・その力が、現在の日本にあるとは考え難い・・・ならば、他にどんな方法があるか。私は、静かな財政調整だと思う。もう、金本位制に戻ることは考え難い・・・となれば、各国の「紙幣」の印刷の規模に、その国家の存亡が掛かっているはずである。浜矩子教授が、通貨の統一よりも、一国・多通貨の可能性を唱える理由でもあるだろう。
地球が全体で一国である様な経済状況・・・これを、多国存立の国際関係で調整することが困難になりつつある現在、加えて、EUROの失敗(・・・するだろう)の固執するよりも、小さな通過県内で、その規模に応じたインフラの規模で、経済を動かすべきではないか。

自民党の、今日までの経済運営を「失敗」だと言う、野党、野党的評論家の言説が虚しいのも、新幹線、高速道路・・・等々のインフラが、どれ程、今日的日本の姿を作って来たかを知る国民には、当然であろう。将来「無駄」になるインフラは、厳しく排除すべきである・・・それも、学びの結果である。それ故に、インフラの選定は慎重でなければならない・・・民間活力が求められる・・・しかし、その為のインフラは欠かせない・・・この矛盾関係の中から、始まる明日への一歩・・・二歩目は・・・その討論が真摯に可能な社会・教養・・・それが求められているのではないか・・・。