中国の有害濃霧・・・・

北九州の最盛期でも、これ程ではなかったな・・・勿論、映画・「この天の虹」を見直して言うべき台詞かもしれないのだが・・・確かに、西八幡の四製鋼工場の、酸素吹き込み製錬の「真赤な煙」が、対面の桃園アパート(八幡製鉄社宅)に、風向きにも依るが、吹きつける様は、壮観だった。戦争映画で、突撃の直前に張る「煙幕」の如きものだったが、粒子が重い(鉄粉)から、直ぐに空気中からは脱落する・・・この地域に、公害の噂は、ついぞ聞かなかった所以でもあるだろう。

もともと、中国人は、荒野の民であり、砂漠の民である・・・芸術品に、精神性よりも「美」を求める・・・と私は思っているのだが・・・所以でもあるだろう。数年間のお付き合いをした中国人技術者達も、身なりの貧しさは、当時の中国の経済状況からして当然かもしれないが、戦後の、日本人が・・・恵まれた特別の人達だが・・・もう少しファッショナブルだったのではないか・・・身の丈に合わない、だぶだぶの背広が可愛そうだった。但し、幹部クラスは、きちんと身の丈にあったものを着用していたが。

特に、北京近くの出身者は、至る所で「痰」を吐く・・・空気が乾燥しているところに生きる人々の習性だとは言うが、企業の寮の廊下でやられたら、掃除をしている方々は、たまったものではない。「何とかなりませんかね・・・」と、言われても、腫れものに障る様に日々をお付き合いしているのだから、我慢をして貰うより方法はなかった。
ある会議が始まる直前だった、中方の団長の前の湯のみが倒れてお茶がデスクの上に広がった。まだ、書類が広げてなかったので、“ほっと”安心した瞬間、団長が、会議デスクの末端に座った通訳に、中国語で何やら命じた・・・その瞬間!・・・23,4歳の女性通訳の手から「布巾・雑巾に近い」が、投げられた・・・・ヒヤリ!としたのは、日方の面々である。と、次の瞬間、団長の口から馳せられたことばは、「謝謝(しぇしぇ)・・・ありがとう」だった。
流石に、この光景を目の当たりにして、日方の幹部が、やんわりと中方の幹部に、談話風に忠告したらしい・・・「マナーは、ビジネスに影響しますよ・・・と」・・・その資格が日本人にあるのか・・・日本人旅行者が、飛行機の中や、高級ホテルの廊下をステテコ一枚で闊歩していたのは、つい先ごろまでは、見慣れた光景だったのだから・・・忠告する方も勇気が要ったのだろうな・・・アフターファイブでは、盃を傾けながら、話に花が咲いた・・・。

有害・濃霧も、当時を思えば、我々が、悪しざまに言えることではないだろう。日本は、比較的上手に近代化を果たした・・・平和的開国をその理念とした当時のアメリカに感謝しべきかもしれないが、その日まで、それに値する国家を育ててきた、徳川政権・武士の功績ではあるだろう。しかし、中国の開国は、散々な列強の侵略の結果として生じたものであり、隣国の日本が、その最終段階で、強烈なパンチを見舞った・・・そして、毛択東が、中国国家の再建に乗り出したのが、「1949年」である。中国は、まだまだ「発展途上国」・・・しかし、そんな謙虚な事を言っている余裕はない。我々も、その様な歴史への忖度が多少はあるべきかも知れない・・・。今日の空を見上げながら考える。