明石報道橋裁判・・・そしてグアム島事件・・・

悲惨な事故ではあった。しかし、何故あんなに詰めかけなければならなかったのか。そんなことを思わせる事故が多い。グアム島の事件も、何故グアムで結婚式なのか・・・と、思う。「個人の選択・自由である・・・」と反論も了承するし、それへの反論はない。しかし、選択は自己責任でもあることを、一歩下がって考える、了承すべきではないのか・・・スーパーの商品棚に並んだ商品の中に、偶然に粗悪品が混じっていて、それを買ってしまった・・・食品企業を信頼し、流通企業を信頼し、販売店の管理体制を信じて、日頃の買物をしている・・・そのマナーの中で、起った、殆ど予測不可能な事故・・・それでも、調理の時に気が付かなかったか、異常を感じなかった・・・かの問題は残る。しかし、限りなく不可抗力に近い・・・と、判断されるだろう。

しかし、その判断の前に、その場に己を存在させることについての、殆ど無思考の行動には、それなりの危険が伴うものである。それは、日常のニュースから、個人のリテラシーとして求められるものではないのだろうか。「危ない!」・・・データで判断することもあるだろう。或いは、直近の事例に、判断の資料があるかもしれない・・・。しかし、事故が起こっていないことが、「安全」の保証にはならないことは、日常に存在する。

明石報道橋・・・・警察は、モニターで観察していた。しかし、その安全性の判断は、マニュアルでありファジーである。勿論、橋の許容荷重は値として存在する。しかし、それは殆ど新品の時・・・つまり設計値なのである。また、群衆が「雪崩れる」ことを想定した「橋梁」が存在するだろうか・・・また、警備体制とは、大衆が群衆にならない前の処置・処理であって、そこには、群衆の一人一人の良識に依存しなければならない要素もあるだろう・・・つまり、警備への協力である。もし、警備の態勢が「経験則」なら、そこに群れる群衆の心理も判断も「経験則」ではないのか・・・目糞が鼻糞をの類になりかねない・・・。

群衆が群衆を呼ぶ・・・戦後にも、少ない物資を求めて、日本の各地で、争奪戦が演じられ、多くの死傷者が出たはずだが・・・当然の減少として、殆どニュースにはなっていない。そんな記憶を持つ私が、東京ドームの野球観戦で、9回の表で、ドームを出ようとして、連れの友人に笑われたことがある。田舎人には考えられない、ドームを出た群衆の散り具合だった。あっと言う間に、水道橋界隈の人の群れは消えた。ドームを満員にしていた群衆は何処に消えたのか・・・それも「文明」なのである。その後の話題にすらならなかった。

この裁判・・・一度は終わった裁判である。被害者の、やりばのない憤懣を理解できないものではないが、やはり、時代が要請するリテラシーの狭間で生れた悲劇であるとしか、私には理解できない。もって、他山の石である。

グアム島の悲劇・・・渡航者の70%が日本人であると言う。恐らく、今回の様に、親族中揃って、あるいはグループで・・・と言うのが多いのだろう。グループ旅行。企業で働く人々が、毎月囁かに積み立ててバスを仕立てて、日帰り旅行・・・私の職場でも行われていた。現場の、荒武者の一行だから、バスの中で、バスの外で、酒を飲んだ勢いの喧嘩のオンパレードだったが、ひとりの心ない行動が事故に繋がることもある。そして、組織の「長」が始末書を書かせられる。事故の原因となった個人の責任は問われない・・・日本人には、不思議でも何でもないのだが、韓国人ですら、「変だ!」と、主張していた。我々が「犯人」とよぶ、この男・・・多分、軽微な「罰」で、一件落着になるのだろう。

ブラジルに出張する時(30代)の注意・・・君達は、ブラジル政府発行の身分証明書は持っていない。つまり、君達は、「犬、猫」に同じなのだと。加害者は、安心して・・・人間を殺傷したのではないから・・・病院には担ぎ込んでくれるだろう。しかし、事件は、其処までである・・・と。人間の社会の「法」は、人間にだけ適用されるのだと・・・背筋に寒いものが走ったのを覚えている。

ちなみに、「身分証明」を持っていたら、人間に危害を加えたのだから、目撃者がいなかったら、そこに放置される・・・人間か、人間でないか・・・それほどの差があるものなのである・・・