「官」を責めれば、問題は解決するのか、事件・事故は防げるのか?

数年前の、花火見物の群衆が雪崩れて数人が死亡した、跨線橋事故・・・今回の検察審査・裁判で、けんもほろほろに却下された。
告訴の理由に、半年前程の事象があって、その時は事故が起らなかった・・・当時の、新聞の写真が紹介されていたが、事故にならなかったのが、僥倖とも言うべき情景ではあった。結局、警備の警察も、モニターを見ていた、件の署長も、その時の経験で、まだ大丈夫と言う判断をしたのか、あるは経験上、もう手は打てない・・・つまり、花火見物の群衆を排除することの物理的困難を予測して、ことの成り行きに任せた結果の事故であったことが、伺える。しかし、それが討論されることなく、警察当局の警備の不備・怠慢とだけなって、今回の裁判になったことを、私は非常に残念に思う。市民・国民が、あるいは大衆が、群衆が、日常において、如何なるマナーを取ろうが、免責されるという思想に、私は危惧を感じるからだ。

つまり、少なくとも、地元の人々、近隣市町村の人々は、新聞(ニュース)を読んでいれば、当日の混在(“超”を付すべき)は、当然予想出来たことではあった。少なくとも、地元、近隣の人々が押し掛けることなく、遠路を訪れた人々の「場所」を譲れば、この大惨事は惹起しなかったと言う事である。

裁判の中で、報道の中で、何故、この事が語られないのか・・・今朝の“みのもんた”も、一方的にッ警備の不手際・・・いや、怠慢・・・として批難する一方だった。寧ろ、ニュースを淡々と読む、NHKの方が、我々に、「考えるのは貴方方ですよ・・・」と訴えている様で、好感が持てる。

この裁判、控訴は確実なようだから、今後も続くのだろう。悲惨な事故から5年、再審が結審するのは、5年か、10年か・・・誰もが忘れた頃に・・・悲劇ではあるだろう。争う方の孤独感が深まるだけで、問題の、多少なりともの解決には、ミリも近づかないのではないか。悲しい事である。しかし、この事故の現場で生き残った人々・・・実は、群衆の大凡であるが・・・が、この事件の当事者としての自覚を持つのだろうか・・・この記憶が残っている限り、再発は防げる・・・その意味では、裁判を続ける意味はあるだろうと思う。しかし、当事者遺族の孤軍奮闘は続かざるを得ない。

そもそも、交通の便利の為に、主道路のスムースな交通を助ける為の「橋梁」が、花火の見物場所に変ずる。橋梁の設計に加えるべき、安全の要因か、否か・・・私は、安易な・・・安全な見物場所を提供できない「花火大会」に、問題点を指摘しておきたい。賑やかな、大規模な・・・花火大会にしたいのなら、それなりの、見物の安全を確保するべきである。今回の裁判も、主催者側の怠慢を裁くのが本筋であると、私は思う。責め易い「官」を責めて事足れるとする感情にも、一言を呈しておきたい。