三人の死刑執行・・・

優しそうな風貌から、谷垣大臣では、死刑の執行はないのかな・・・そんなことを思っていたら、内閣発足から、まだ日の浅い昨日のニュースに「三人の執行」が伝えられた。多少、驚きを隠せないわたしである。
特段に、死刑囚へのシンパシーがあるわけではないし、死刑反対論者でもない「私」である。ただ、内閣改造で、谷垣氏が法務大臣を辞するまで、何人が処刑されるのかな・・・不謹慎だが、その予測もしたくなるのは隠せない。刑の確定から「六ヶ月」という規定からは遥かに外れているが、比較的記憶に残っている間の死刑執行である・・・多少でも、凶悪犯罪、とりわけ、弱者への凶悪犯罪の防止に役立てばと、報道の姿勢に、その視点からの記事に不満を感じてはいる。

また、凶悪としか言いようのない「交通事故」紛いの犯罪・・・過度の遊興の末の「居眠り運転」、未熟乱暴運転、飲酒・酩酊、暴走運転等々、そして、酩酊を隠蔽するための轢き逃げ・・・等々、死刑に処すべきだという犯罪は多い。
その彼等を救う判決の中の、常套語・・・それが「反省と後悔」。裁判官が、本当に、そう思っているのか・・・その真意を疑う。加害者の弁護の裏側に、被害者への「言葉」は如何なものがあるのか。あるいは、被害者の悔しさが理解できないのか・・・叫びが聞こえないのか・・・私は、「法」を学ぶことが、人間をして、これ程の「無神経」を育てるのかと・・・言いようのない悔しさを感じる一人である。

刑事ドラマ、裁判ドラマ・・・もっと厳しさを有するドラマが生れないのか。刑務官だった父が、晩年に、その手のドラマを見ながら呟いたものである。刑務所の仲間で描いて欲しいものである、死刑囚は死刑の執行までを・・・・と・・・。新聞の論調も、「死刑当然!」と言う論調はない。あたかも、法務大臣が残酷であるがの論調である。死刑が残酷であることは言うまでもない。しかし、死刑囚が犯した犯罪は、それ以上に残酷であると・・・私は思うし、そう主張するメディア、TV、新聞もあって欲しいものである。死刑と釈放の可能性のない「禁固刑」・・・どちらが厳しいのか・・・私は、長い禁固刑で、世間に晒すことのほうが、防犯と言う意味では効果は大きいのではないかと思う。江戸時代までの「市中引き回し・晒し首」・・・犯罪とは、それでも止まないものである。況や、犯罪を弁護をするにや・・・。