歴史認識、そして「2・26」

歴史を、その未来を含めて把握することは不可能である。その時の、時代の要請で、その時の事情で選択した政策、政略が、当面の目的があるにしても、よしんばその目的を達すれば、そこから、新たな事象が生れることは否めないし、そこから発する次の時代を、正確に予測する等は、大凡不可能である。従って、如何に慎重な行動であっても、その行動が、強い信念で遂行される限り、その結果に含まれる齟齬は大きなものがあり、その修正は、悪の上塗りになるのが落ちであり、その政治行動が大胆且つ協力であればあるほど、深い陥穽に嵌ってしまう。明治維新後の、この国の歩みの中に、我々から見れば、我が身保存の為の幾多の政治行動が、あるものは、成功を収めて、敗戦を含めても、今日に貢献したものは大きい。しかし、亡国的敗戦に至った原因を全て排除すれば、更に良い結果がうまれたかと言えば、それを信じるとすれば、それは、大いなる「妄想」である。

韓国の新大統領・・・朴僅恵の就任演説は穏やかなものではあったが、日韓の間に横たわる諸問題、issueと言うも、agendaと言うも、極論すれば、日本が開国した当時の状況・・・明治維新、そして清朝朝貢国としての韓国(朝鮮)に戻して、リスタートは不可能である。両国の発展の違いが、そして、隣国であるが故の運命が、日韓併合、南北分裂・・・と言う、今日の「不幸」を生ましめているのである。言うなれば、歴史認識を超えるものでもあるだろう・・・と、私は考えるが、一国の政治としては、直近の歴史こそが、現在の桎梏を生んだ原因なのであり、そこへの危惧を、針小棒大(過害側の心情として)に喧伝されても、それが抽象的に発言されれば、心情的感情論であればあるほど、問題の解決からは遠ざかることは否めない。本来、過去は、変化しないものであり、変えようがないものである。

呉善花黄文雄・・・等の著書を読めば、現代の韓国がどの様に出現したか、何故、その様なプロセスを経たか・・・これを「悪」とするならば・・・韓国には、如何なる道があったのか・・・しかし、経過の途中には、そのコースを選択するチャンスがあった・・・しかし、その選択は、その時の力関係の中で決定づけられたものである。日本側の政治的危機感・・・朝鮮半島へのロシアの、侵略的進出・・・が、優先しての、日清戦争であり、日露戦争・・・そして、韓国併合の歴史になった。

ロシアの咸鏡北道興南の港へのロシアの食指は、今日の様な「温暖化」の気候の中では理解に難しいのではないか。極東ロシアが、日本海、太平洋に出ようとすれば、「不凍港」が欲しい、その北限が「興南」だったのである。「竹島」等も、それらの事と関係無しとはしないだろう。

そして、「2・26」・・・この蜂起は失敗したかに見えるが、実は、その後の日本の大陸進出を見る限り、大成功を収めたクーデターだった。この頃、私は、母親のお腹の中で、何時、この様に誕生するのか、その機を伺っていた。
そして、新たに首相の座に就いた・・・当人は至極満足だったらしい・・・内田興毅によって、陸軍大臣海軍大臣の「現役制」が実現する・・・これに依って、政治は、軍部のあやつる所になる。

当時の日本は、近代歴史上稀に見る、優秀な、それぞれにカラーを持った三人の外交官を有していた。一人が「内田興毅」であり、後の二人が、「吉田茂幣原喜重郎」である。後者二人は、軍部の忌避するところとなり、内田興毅が、首相の座を射止め、当人にとっては悲劇的なものになった。が、理由が何であれ、如何なる理由があるにしろ、海軍大臣陸軍大臣の現役制が、何とか維持しているかに見えた政治体制に、鉄槌を下したことになる。そして、私は、もう一人、亡国の軍人・東郷平八郎を加えてい。彼が、戦の経験のない、若い軍人官僚の尻馬にのって、ロンドン・軍縮への反対の旗手を務めたことに依って、建艦競争に歯止めが掛からず・・・日本は、図体に似合わない軍事大国への道を加速させた・・・と、私は歴史を読む・・・。

日本が、侵略への道を進み始めた時、もう朝鮮半島は、日本に対して「非抵抗」の存在でしかなかった。北の「金・一族」が言う様な抵抗は、殆ど存在していなかった・・・無抵抗のままに、日本の政略に従ったことへの反省・・・それが、日本への「歴史認識」だけを求めるものであってよいのか・・・朝鮮半島なくして、中国大陸への侵攻も、南方作戦も不可能だった・・・歴史に「もし・・・」言うとすれば・・・ことは容易に想像できる。歴史認識とは、相手にのみ求めるものではあるまい。また、其処から得るものもないだろう。また、新しい政治も、相互関係も、また、新しいアジアの構想も生れはしないだろう。反省を込めた認識への努力を認識しながら、考えながら、残りの生涯を送りたいと、願う、一人の老人の主張である。