一票差の可決・・・

J・F・ケネディーの著書・「勇気ある人々」に次の様な話がある・・・記憶で書くので多少は不正確だが・・・アメリカの議会(上院か、下院か・・・記憶は怪しい)で、ある法案が、議論百出・・・与野党で、なかなか妥協に至らない。日本の様に、「党議拘束」に従って、理解不足のままに採決には持ち込めない。採決するに至っての、ある程度の妥協があってこそ、国民に討論の理解がされることは、議員各位は百も承知・・・大凡、与党案を軸に妥協がなって採決に持ち込まれた。Lobby活動も活発に行われた。どうやら接戦ではあっても、数票差で可決できそうな様相になり、与党が採決に持ち込んだ。

法案は採決された。賛否の票差は「一票」。投票箱を開けて(?)て、与野党の議員が驚いた、選挙区の状況から、その議員の置かれた立場から、「賛成」するはずがないと思われていた、議員の一票だったのである。

その議員は、次の選挙では落選・・・読み直してみないと分からないが、記憶では・・・国家の為に、必要な法案であり、廃案にする行為は、神が許さないだろう・・・選挙民からは批難されても、国民として、国会議員として、与野党の立場を離れて、私は、己の信念の一票を投じたのだと・・・生涯、恥じることはなかった・・・と、ケネディーは、人物像を描写している。

昨日の、補正予算の、一票差の可決・・・久々の快挙して、私は賛辞を贈りたい。結果が、どうなるか・・・それは、今後の推移のなかで評価すればいい事である。ある野党議員がコメント・・・議論の前に、賛否を明らかにして、討論・議論を無効にする様な採決へのマナーはあってはならないと・・・と、コメントしていたが、建前としても評価すべきだろう。議員の資質への評価は、今後の活動の中に、再評価すればいいのだから・・・。

民主党政権の最大の瑕疵は、政権維持への窮々たるマナーだった。自らの「多数」という武器さえ、失うことへの恐怖からは役に立たなかった。多数であればこそ、失う時の恐怖に駆られたと言うべきか。仮想的には、民主党が進んで「党議拘束」を外して国家審議に臨んでいたら・・・と、思わざるをえない。党議拘束なしに国会論戦に臨む議員に、国民は冷たいだろうか・・・故郷の議員は、党派の枠を超えた期待が、地元の有権者から期待されているはずである。自民党政権を、参議院の捻じれを利用して政権を奪取した・・・不当な奪取だったと、私は思うが、方法が悪辣だっただけに、何処かに後ろめたさを隠しきれなかった。そして、自ら政権の座に付いた時に、衆議院の「多数」を武器とし得なかったが為に、政権を失った・・・私の理解である。

捻じれが生じるからこそ、二院制は良いものである。しかし、その利点を阻害しているのが、厳しい「党議拘束」である。つまり、議員の一人一人をロボット化するものであり、議員間の連携を「闇の世界」のものとしてしまい、政治を「闇」の中に追い込んでしまう。「人脈」という、マフィア化でもある。今回の、一票差の可決を、他山の石として、あるいは、新しい知恵として、勇気を以って改革に繋いで欲しいものである。