文明が退化させた”能力”の悲劇・・・

「最近の漁師は、TVの天気予報を確認しないと、出漁できなくなってしまった・・・」と、嘆く、古老の如き漁師の言葉を聴いたのは何時だったろう。まだ、モノクロTVの時代だったかもしれない。また、小学生の頃に、早朝を歩いて、5時頃の列車に乗って働きに出る息子達の為に朝食と弁当を作っていた祖母が、ある日・・・「この頃は、時々時間を間違える・・・星や月が変わった(変化)したわけでもないのに・・・」と呟くのを耳にして驚いた記憶がある・・・バァチャンは時計を見ていないのだ!・・・と。昭和22,3年の頃の事である。

北海道の吹雪・・・9人もの人命を失わしめた。まるで、「八甲田山だな・・・」、映画の中で見た、凍死した兵士の姿が蘇えった。九州中部・南部の、ゲリラ豪雨による被害を想起すれば、ゲリラ豪雪・吹雪だったのだろうか。高く積もった雪の景色に、北朝鮮興南で、記憶に残る、小学生(3,4年生)の背丈を超える積雪の景色を記憶の中に辿っている時のニュースだった。そして、9人もの命が失われた。アルジェリアで、エジプトで、そして北海道で・・・どうしてこうも次々と・・・と、思わざるを得ない。今年の春は、日本人受難の春ではある。

全てが、クルマ、なかんずくマイカーに依る遭難であること・・・文明の環境の中での「死」であって、山等の遭難とは、明らかに峻別される犠牲であることが、悲しい。
言うなれば・・・・「文明」の怖さ・・・いや、文明を信じ足ればこその遭難であり、文明なくば・・・手にしていなければ、家の中で、温々と過していたであろう家族が、マイカーと言う文明を手にして、猛吹雪と言う自然と遭遇して、命を失った・・・と、考えても考え過ぎではないだろう。

例えば、この土地を知りつくしたアイヌの人々だったら・・・あるいは、突然の吹雪の襲来を予見できたのではないか・・・TVの気象予報が伝えなくても、その五感が、教えてくれたのではないだろうか・・・空が晴れていても、外出を控えたのではないだろうか・・・外出先から、帰宅を強行することも無かったのではないか・・・いろいろな事を想像する。
すべては、クルマと云う文明への過剰な信頼であり、気象という、生物にとっては最も基本的な能力である「予見」の欠如のしからしめるものではあるだろう。犠牲になった方々が、この地域の気象について、どれ程の対応能力を持していたのか・・・メディアは伝えないが、今後の、最も大きな課題ではあるだろう。

一部では、「予想は不可能だったのか・・・」。これも随分昔の事だが、長崎市の中心部と、その周辺部が、集中的ゲリラ豪に襲われ、多大な人的被害を蒙り、特に、電話口で救助を求める母親の絶叫が痛々しかった。これなども、気象予報では予測不可能・・・との専門家の意見が多かったと思うが、天上の気象ではそうであっても、それを受ける地上の状況は、確率の問題であろう。「想定外」・・・当時は、どんなフレーズが流行したのか・・・もう記憶にはない。

町つくり、郷つくり・・・街を愛する・・・と言うも、街という文明が、人々の命を護る限界は、人間自身の知恵である。経済的に発展したい・・・その願望の裏側で、己の命を危険に晒す事態が生れていないか・・・クルマの道の為に川幅を狭める愚かな行為をしていないか・・・吹きだまりの出来る道路・・・せめてその場所を知っていたら、あたら命を失うこともなかった・・・そんな声が聞こえる。娘を庇って犠牲になった父親・・・悲しい犠牲である。そんな犠牲を出さない「生活環境」への思考こそが、失われた命への、哀悼の献花でなければなるまい・・・。