次の大津波と闘える東日本に・・・大震災・3年目・・・

此処に来て、色々な事実が明らかになっている。つまり、本来大きなニュースであるべきが、色々な事情で、報道されなかった事実、あるいは、大きな報道の中に埋もれた事実、また、大きなニュースの陰になって見えなかった事実・・・・そして、被災者の不満も、一応の生命の不安よりも、将来への不安に代わりつつある現在だからこそ語ることが出来る・・・それらにコミットする被災者の口からは、それらは、復興の遅延として表現せざるを得ないのだろう。

戦後の焼け跡には、バラックが雨後の筍の様に出現し、多くの人々がそこで生活し、次第に生活の充実度を増し、家を改造し、建て替え・・・現在の都市が生れた・・・東京等、関東大震災の時の、後藤新平の夢の残りの一部でも実現していたら、予想される直下型都市大震災への恐れも、随分と違ったものになってりうはずだが・・・スカイツリーから見下ろす東京が大地震で崩壊した時、「俺は助かる・・・」と考えることは、恐らく「愚かの極み」だろう。

我々年代が、復興の遅さをしてきする時、その念頭にあるのは、戦後の復興の姿であり、スピード観であるだろう。しかし、東日本は、約百年の間に、三度も被災しているのである。今回は、真昼間の震災だったが、三月と言う季節の、夜中の震災だったら、もっと悲惨な状況になっていたのではないだろうか・・・今も、津波の跡地の建築制限に、元住民が従順なのは、その思考があってのことだと思う。それを、遠くに眺めることしか出来ない、私の立場の人間が、遅いとか、怠慢とか・・・いろいろ御託をならべるのは、厳に戒めるべきだろう。

仮設住宅・・・あるばき集団の中の人間的絆が失われたことに起因すると思われる、精神的疲労、そして自殺が後を絶たない・・・阪神淡路の時も問題視されていたのだが、派手なイルミネーションに復興の興奮を感じた・・・これも不幸の極みだと、私は思うのだが・・・ことへの反省が聞かれると言う。つまり、仮設住宅の入居・・・入居の権利の取得を平等にするために「抽選」にした。その事が、震災前の人間的絆・・向う三軒両隣の関係・・・を完全に消滅させ、仮設住宅は、言わば、多国籍な人間の集団になってしまった。つまり、絆とは一朝一夕に出来るものではない。数代・・・3代、4代以上のお付き合いの中で醸成されたものであると言う事が、完全に無視された結果であった。その反省が、今回の東日本大震災に於いても為されなかった・・・。

津波後を住居にしない・・・高台移転が基本として復興が考えられている・・・しかし、商店街が復興するか、学校は再建されるのか、病院は・・・と、問題は山積である。つまり、養老孟司が言うがごとく、我々は、人間の脳の内に生きているのである。
大震災とは、その「他人の脳」が破壊されたことなのだろう。今度は、被災から立ちあがる人々の「脳」で、新しい生活基盤を回復しなければならない・・・あるいは、もう見えなくなっている「祖先」も、そうやって生きて、被災前のインフラを作り上げてきたと考えるべきであろう。それは、「復元」ではなかった筈である。

もし、今回の復興の姿が「復元」に終わったら、それは現在の被災者の「酔生夢死」を歴史に刻むだけだろう。新たな被災に、悲劇に過去を想起するのではなく、次の新たな生活への起爆剤になるような歴史を刻む・・・私は、そんな歴史を担った東北の人々の幸せを思う。また、其処に関われる若い人々の幸せを思う・・・少なからず、戦後の復興が一段落した折に成人し、高度経済成長の中で、己の役割を与えられた、己の幸せを思うものである。

先日、二人の若い学研と一人のボランティア・マネージャーと、東北に駆け付けた若いオーディエンス(数十名)とのシンポジュームがNHKで放映された・・・DVDに収録したので、再視聴する時間を探っているのだが・・・今回の大震災を「チャンス」と捉えれて欲しい・・・との、三人三様の言葉が印象的だった。都会に憧れ、都会で悲劇を待つのが幸せか、あるいは、東日本に永遠の繁栄を期待できる「住処」を考え続けるのが幸せか・・・次の大津波を交わすことができたら、あるいは、打ち勝つことができたら・・・其処に、現・被災者が生きている・・・私は、そんな風景を未来に想起する。