鎮魂と復興と・・・個人の復興も10年は覚悟すべき・・・

鎮魂・・・戦いが終わって、満蒙に見捨てられた数百万の命、シベリアに忘れられた数十万の命、勿論、戦場に、あるいは輸送船に、はたまた、大空襲、原爆で失われた数百万の命・・・戦後の数年間は、人々の記憶の中にも忘れられ、辛うじて、「慰霊祭」と言う名の、形式的な鎮魂が行われるころには、その原因になった「戦争」すらもが、人々の遠い記憶になっていた。そして、わが家は、植民地を、家族揃って脱出し(メンタイ舟)、父も母も、安穏に臨終を迎えた。
無口な、あるいは、心して閉ざしているらしい「父」の口を僅かに開かせて聞き得た「言葉」は、「運」の一言だった。司馬遼太郎は、幾つかのエッセイの中に・・・「名前も消えて、個人として記憶されなくなった時、人は「御先祖様」になる。その時、歴史の中に消え、一つの歴史になる・・・と、言う様な意味の文章を残しているが、広義の戦争犠牲者が、そろそろ「御先祖様」になりつつあるのだろうか。殆ど鎮魂されないままに・・・何処かで「祟り」を起こさないか・・・心配ではある。そして、70年、100年・・・大津波に生れ、生き残った嬰児も、70歳、100歳・・・今回・東日本大震災の犠牲者も「御先祖様」になるのだろう・・・・。

復興が進まない、進捗が遅い・・・誰を批難しているのだろうか。私事でいえば、何とか、法も犯さず、悪事も働かず生活出来るようになり、私が、26歳で、今の家(小さな)を立てたのが昭和37年。私は、これを、私の家族の「復興」と呼んだ。父と母は、私達を育て、弟、妹に大学教育を受けさせ、戦前に私に託した夢が実現できたことを喜び、また、それを満足として、90歳、98歳の命を全うして静かに身罷った。「子どもを一人も失わず、自分の家(私が建てた)で、悠々自適で暮らす・・・」、やはり「運が良かったのだ・・・」と呟きながら・・・その「運」の中には、公務員でありながら行った「闇商売」が成功したことも含まれているが・・・・。

復興の遅れを批難し、嘆く人々は、自力で生活を立て直し、自分の家族の生活を取り戻す力を有しているのだろう・・・と、TVの中の発言に思う。満蒙を追われた人々が内地に辿りついた時は、文字通り無一文だった・・・内地に銀行に預金を持っている人は少なかったろう。内地に残した財産を、平和裏に手にした人は少ないだろう。
しかし、幾ばくかの預貯金や不動産、動産を有する今回の被災者は、自力復興が可能なのだが、生活環境が整わないし、あるいは行政の復興計画が、それを許さない事情があるだろう。豊かにして、制度が整い、順法精神に富む人々の住む社会のジレンマでもある。しかし、余世に余裕のない方、あるいは、自力復興がほぼ不可能な方は、地域が、どの様に復興するのか・・・の、不安もあって、復興の目途が見えず、自ら暗中模索することも許されないもどかしさがある・・・と、私は推察する。

復興に準備した資金は、昨年分が使い切れずに繰越になっていると言う・・・ある意味、贅沢な悩みだが・・・復興を待つ人々には、これほどもどかしいことはないだろう。
一つは、特に、津波の後地を、そのまま復興しない・・・という、自治体の決意であり、そのための代替地の確保、造成がままならぬと言う事情がある。国土が、全部国有地なら・・・と、切歯扼腕されている方も多いだろう。
今一つが、工事の遅れ・・・人不足、機材不足の現実である。特に人不足は、「政府の公共事業」を政治的に攻めまくった歴代の野党の責任でもあるだろう。小泉内閣の後半から減らし続けた公共事業・・・その余波は、現今の、人手不足、機材不足に、そのまま原因しているのだと言う。

古代国家の多くが、人足(労働力)を定常的に確保するために、時に、役立たずのインフラを建設した知恵・・・それがピラミッドであり、万里の長城であり、奈良の大仏であった・・・その知恵を、歴代自民党の政治家は感性として有していたが、党内野党の増加した自民党と、闇雲に、目の前の議席を欲しがる低劣な野党政治家が、自民党の本来の意識であった、非常時に備える政治の本流を見誤らせた。今、復興の遅れは、それが具現化しているのである。

コンクリートから人へ・・・とは、社会インフラが破壊された時の、復元力をも失わしめている・・・我々の、政治的資質の欠如の齎したものであると、改めて認識すべきだろう。私は、個人的にも、10年は覚悟すべきであろうと思う。仮設住宅も、その意味では、もう少し住みやすいものに改造すべきであろうし、あるいは、住みやすい仮設住宅を作って、住み代える工夫も必要だろう・・・と、考える。コンクリートも、自然には逆らえ得ない人間の、生活の保障なのだから・・・。