主権回復(昭和27年4月28日)・・・沖縄からの異議

国家主権・・・戦争は、国家主権が行うものである。故に、この、「主権」という言葉に、何らかの人格を感じるものがあるにしても、「国家主権」そのものは、無・人格であり、「空」なものである。戦争とは、その共同幻想に、幻想する、あるいは「した」国民が、人間自身が、生みだし、発展させ、殺傷能力を持った武器で闘う・・・互いに、互いの「命」を失わしめる行動である。戦時に、政府から、その幻想を支える為の、空白な、空虚な言葉が、国民に向けて発せられ、マスコミという文明が、国民をして、殺人行為に駆りたてる・・・。「悪」かと言えば、引き金を引いた側は悪でも、それに抗して闘った側は、必ずしも「悪」ではない・・・それどころか、「正義」としの行動を誇示することが出来る。

そして、敗戦国は、「主権」を失う。先の大戦で敗戦国となり、あるいは戦勝国に衛星国家に甘んじざるを得ない地位にあった国家の独立は、数十年の苦汁をなめさせられた。更に、国家分割の憂き目を見た国家は、まだ分裂状態にあるか、ドイツの様に、やはり数十年の苦汁を体験を強いられた・・・それは、占領という憂き目に合いながらも、如何なる国家に依って支配されるかで、被占領国の国民の運枚が左右される・・・もっとも、如何なる状態になろうとも、支配者に取り入って、例え、同輩を苦しめても楽しく生きる技量を要する人間はいるものである・・・日本人の仲間として大事され、権力を振い、豊かに暮らした「協力的朝鮮人の家族」が、一夜にして、何処かに消える・・・祖母や母が、心配していたが、数日後に「殺されたらしい・・・家族全部が・・・」との話が伝わって来た。朝鮮半島に、あるいは満蒙にも同様なことは起っていたはずである。

父は、ソ連よりもアメリカである・・・の結論を得たのは早かった。終戦の数日前に召集され、命からがら逃げ帰った翌日から、「脱出」の準備を始めていた・・・共産主義への疑惑と、戦後に目にした「ソ連兵」の貧しさと、高級軍人との格差を眼にしたことが、その要因だったと、晩年に何度も口にしていた。かくして、ソ連は、朝鮮半島の「財産」になる筈だった、日本社会の置き土産を、根こそぎ、ロシアに運んでしまった・・・北朝鮮の貧しさの原因である。

そして、内地に辿りついた私達家族は、アメリカ援助の食料で、何とか生き延びた・・・その結果の「主権回復」である。当時、小躍りする様な、特段の感激は感じなかったし、高校生になった、中学校の弁論部で「平和」を訴えていた情熱は冷めていた。小さな、石炭産業の衰退が顕著なものになろうとして町で、特段の行事もなかったし、入学を果たした工業学校での、祝賀行事もなかった。北九州五市の、何れに於いても、祝賀行事があったことを記憶していない。特需景気の陰りが見え始めており、盛大に祝う気分ではなかったかも知れない。そして、昭和28年、29年の、就職・大氷河期が始まり、結構苦しめられた。今は、主権回復が何時だったのかを考えることもなかったのだが、安部総理の「記念日」提唱で、思い出を新たにして、当時を想起している次第・・・

戦争の記憶・・・悲惨な証言記録も、証言も、時間の経過には勝てないだろう・・・・痛みを伴う記憶の悲しさである。痛みが残っていての記憶の儚さと言うべきかもしれない。寧ろ、その痛みが、名分だけでも消えた日、歴史の「点」として、歴史の中で必ず眼にする様になった時、人は、それを無視できなくなる・・・その意味で今般の安部総理の提唱に賛同する次第である。

沖縄の知事が、不愉快の感情を露わにしているが、沖縄復帰は、この主権回復の集大成として、もし、沖縄の米軍基地が無くなる日が訪れれば、「日本国の、再誕生」として、また祝日を祝えばいいのではないだろうか・・・昨今の知事の発言は、少々、意固地に過ぎる・・・そして、主権の回復があってればこそ、沖縄返還の外交交渉も可能になったのであり、そのことも、当時の沖縄の人々の悔しさを忍ぶ縁(よすが)にもなると言うものだろう。

また、悲劇ばかりが反省の材料ではない。「再建」の出発点を確認する・・・何故、「主権回復の日」が存在するのか・・・常に、前の戦争の愚かさを考える縁(よすが)にもなるだろう。また、「原爆」の記憶と無関係ではないこと・・・そして、朝鮮半島、満蒙に、苦汁を強いられ、犠牲になった日本人が、何故に、不条理を耐え忍ばねばならなかったのか・・・外交の不在、不可能性の犠牲・・・改めて「国家」を考える契機になるのだと、私は考える。