死刑・・・・・

今朝の購読紙の一面は、死刑囚の手記。最後まで、己の罪(刑罰ではなく)を告白するでもなく、遺族への慰藉の気持ちを露わすでもなく、淡々と、あるいは傲慢に、死刑台にその命を失うものも少なくないのだと、刑務官だった父が、新聞やTVにこの種のニュースを聞いたり、読んだりする度に、僅かに呟いていたことを思い出す。永山則夫について、私が触れた時は、沈黙だった。彼を、どの様に評価するのか・・・犯した犯罪を消し、失わしめた命を復活させることは叶わないのだから、「起った事」とするだけだろう・・・そんな事を言った様な記憶があり、未だ若かった私には、大いに不満だった記憶が蘇えるだけである。加えて・・・・
刑事ドラマ等で、犯人逮捕までのストーリーでは、犯罪を最後まで語る事にはならない・・・と語り、送検されて拘置所に入る時に泣きだす犯罪者は多いのだ・・・と。流石に、死刑執行まで・・・とは、言わなかったが・・・。

最近、二人の幼い子供を虐待して亡くした(殺した)母親に30年の懲役刑が確定した。模範囚であれば、15年ほどで仮釈放は可能だろうが、30歳代の女性に、15年は、決して短い時間ではない。況や、その後には、「殺人者」としての汚名が圧し掛かっているのだから・・・。恐らく人生の後半生は、「死」への恐怖よりも辛いのではないだろうか・・・一先ず更生して出所が叶った時には、勇敢に、新たな「正義」を、罪を犯すことなく生きている我々・・・と言っても私には間に合わないが・・・に、その姿を晒して貰いたい・・・恐らく死刑の恐怖よりも、その苛酷さが、犯罪への警鐘になるのだろう。

また、被害者遺族の感情が、死刑執行で収まるものでもないだろう。人間のtraumaは、厄介なものではあるが、これなくしては、自己の抑制もままならぬものでもあるだろう。「恨みは早く忘れろ・・・」とは、けだし名言ではある。しかし、被害者への思いを強く持ち続けないと、己を解放してくれないのがtraumaでもあるのだろう。この箴言の裏には、「事実を忘れてはならない・・・」が張り付いている。痛みの元・元凶を身体に、心に張り付けて、「その痛みを忘れろ!」と言うのは、極めて理不尽であるが、けだし名言でもある。

時に、死刑囚と交流を続ける被害者が存在する。死刑囚への復讐ではないか・・・と、論じる巷の声が無きにしもあらずだが・・・賢い「癒し」の方法ではないのか・・・と、思わないでもない。その意味では、「終身刑」が最高刑であるべき・・・との論にも納得する。生き続けるだけが人生ではない・・・とは言うが、生き続けなければ果たすことの出来ない責任もある。その姿を遺族が認める、評価することになれば・・・勿論世間に知らしめる・・・、犯罪抑制の効果も生れようと言うものであろう。ただ、新聞紙面に見る限り・・・死刑囚が、そんな気持ちを匂わせながらも、娑婆の一般人を説得する力量に欠けるのが悲しい。


百年余前までは、引きまわし・獄門・晒し首・・・の社会に疑問を呈しなかった文化を不思議に思わなかった社会である。今日までの間に、どれほどの人々が、理不尽な死刑で命を貶められたか・・・そろそろ総括の時期にあるのではないだろうか・・・。