詐欺商法の餌食にされる高齢者にならない為に・・・

地域に「福祉会」なるものを行政の指導で作って、自治会組織を中心に活動するのだとか・・・私の様な変人にはお呼びが掛からないが、何か「違和感」がある。何故か????
先日、元総理の森喜朗氏が、「早起会」で、一日のリズムを作っている様なことをTVのinterviewで語っていた。私は、「宗教団体」と捉えて、余り関心がないのだが、この団体、余り無理強いしないので、日頃は、関係者とも忌憚なくつきあっている・・・時々、機関誌の購入を誘われる事もあったが、内容に興味がなく・・・御説教の味が濃くて・・・今は、購入していない。時々、誘われないこともないが、「読まねばならぬ本が多くて・・・」と、やんわりと御断りしている。

参加したことがないので、あるいは、誤解も含まれるかも知れないが・・・悩みを、グループの中で、告白して・・・胸の内をさらけ出して〜強制ではないと言うが〜少しでも、こころの負担を軽くしよう・・・という合意なのだそうである。特段に、カリスマ的な指導者の名前も聞かないので、それなりに健全な「修養団体」でもあるのだろう。

仮称・福祉会の趣意を読むと、この「早起会」の臭いがしないでもないのだが〜他意はない・・・独居高齢者や認知症高齢者の私生活に過度に深入りする弊害はないのか・・・また、その節度は如何・・・と、気になる私である・・・絆と云い、相互扶助といっても、其処にはprivateなmentalが無視されてならないはずと考えるからである。相互援助、あるいは、弱者的存在の方への助成・・・あるいは、見廻り、観察・・・私は、privateを基本として、初めて存在し得るものではないか・・・と、思うからである。他人が、家の中にずかずか踏みこまれて、気持ちの良い人はすくないだろうし、踏み込むことを要請されて嬉しい人も少ないだろう。況や、それを感謝せよと・・・言うに及ぶのか・・・私は疑問に思う。

相互扶助・・・高齢者間、あるいは、若い世代の、高齢者扶助にしても、其処には、ある程度の自然な了解が了解されていて可能なものではないのか。それは、曽野綾子氏が言う様に、基本的には、対価を払って得るものであるとの基本的了解があって、旨く行く、あるいは、systematicに運用が可能である・・・と、言うことではないのか。対価の請求、支払いは、その関係に根差すものであろう。

極端な例だが・・・実際に在るか、否か・・・どうしても在宅介護、在宅臨終を願う、独居の高齢者・・・全くの天涯孤独・・・がいて、無理やり、施設に収容する・・・これが、当人の為の親切ということなのか・・・寧ろ、その死を遠くから見守り〜場合によっては、その費用を地域で負担しながら〜その死を待ってあげる・・・側に居なくてもよいし、交代での見守りでもよい・・・孤独は孤独なりの矜持を守ってあげるのが、真の「見守り」であり、「地域の福祉」ではないのか・・・結論は出さない。が、私の理想ではある。

詐欺の話に戻す・・・
突然、高額商品が届き、法外な金額が請求される。豪華pamphletが、郵便受けに入れられ、頻繁に、且つ執拗に、その購入を勧められる・・・あるいは、脅迫紛いに、また、3,000円程の時計で、10万円を貸す質屋・・・高い利息が許される質屋の制度を利用して、利子は年金から天引き・・・。
何れも、違法を承知の「詐欺」である。逮捕されても、この国の「経済事犯」は刑が軽い・・・被害者が命を失う・・・追い詰められて自殺しても・・・犯罪者は、旨くいけば、執行猶予・・・刑を喰らっても数年・・・おれおれ詐欺も、他人に踏みこまれたくない心理を狙った犯罪である。誰かに相談すれば防げるのだが・・・怯えた己の判断を優先して被害者になる・・・かつては・・・私の少年の頃は、地域に、顔役的な、地域の、半ば尊敬を集める顔役がいて、この様な犯罪を防いでいたのだが、人の移動が頻繁になり、地域社会(狭小な)が崩壊して、その様な顔役も姿を消した・・・今日、暴力団と呼ばれるヤクザの世界も、僅かな・・・生活に応じた・・・お礼で、その生計を賄っていたはずなのだが、「お金」に目が眩んだ昨今、その様な浄化機能も、姿を消し・・・詐欺が蔓延る様になったのである。


地域的な、名称は何であれ、「福祉会」的な活動も、現実をしっかりと見据え、個々人の尊厳を傷つけることなく、あくまで、privateな関係を基本にした、相互依存の関係への工夫を進化させるべきであろう・・・特効薬はない。お節介は、お節介なりに、お節介をするのも、受けるのも嫌いな人には、別のお節介の方法を・・・流動的な、効果的な「隣組」組織にならなければならないだろう。其処には、一律施行の法も、規範も必要はない・・・破綻に追い込まれる行動を、僅かに制限しながら、被害を防ぐ努力だけであろう。