石炭火力発電の増強を・・・

家庭向けはともかく、製造業に与える、原発停止に伴う「電力料金・値上げ」の影響が、可なり甚大な影響・・・悪影響・・・を与えているようである。民主党政権期間の、鳩山由紀夫の「25%」発言が、足かせ手かせになっているのではないか・・・今に思えば、亡国的発言だったとしか言いようがないのではないか・・・mediaも、国民への説得を行うべきではないか・・・自民党政権は、世界に向けて媚びることよりも、強い日本を、そのmottoにしているが、この「25%」発言を批難することは少ない・・・しかし、国民に実体を認識させる意味では、原発再稼働への慎重さに合わせて、国民が耐えるべきは、原発再稼働の困難さの原因が奈辺(25%)にあるのかを、丁寧に説明すべきであろう。

そして、事前の策が、「石炭・火力発電」の増強であろう。TV各局に出演するcommentatorの多くが、石炭燃焼に関する日本の技術の優秀さを語る・・・それが何故実行できないのか・・・環境問題に関するallergyであろうかと、その発言の表情に察する。また、民主党も、15%発言を補完する意味で、当面の環境に与える影響を勘案した「石炭・火力発電」への思考を公表すべきではないか。野党と雖も、日本国の経済問題に無関心・無責任であってはならない・・・少なくとも、社民党共産党よりは良識的な政党として国民の支持をえているのだから・・・

そして、発電業界も、石炭・火力発電への可能性を、環境への影響のsize含めた考察として、両親的な研究成果として公表すべきではないか・・・あるいは、シェールガスの輸入、ハイドロメタンの実用化の時期までの繋ぎとしての「石炭」の利用・・・を、国内外に、丁寧に説明をして、原発・発電の半分程でも補完する・・・今は、電気料金で苦しめれば、世間の空気も変わるだろう・・・とのヤクザ的発想は捨てるべきだと、私は思う。

原発再稼働への私見は・・・今回、福島の事故は、原子炉が破損したのではない。停電・断水に依るじこである。ならば、津波電源喪失・給水失敗・・・に対する万全の準備を研究しべきであり、そのsimulationに関する研究を深化・進化させるべきだと考える。つまり、宇宙開発に匹敵、いやそれ以上のsimulation systemの開発と、絶え間ない訓練の積み上げ・・・その態勢を確立する・・・いや、日々更新する・・・ことが肝要であろう。


私は、シェールガス、ハイドロメタンまでを石炭で補完し、数百年後に、安全な原子炉に移行する・・・文明の進化が、より安全な文明の為に、人命を損なってはならない・・・人間の世紀も、その段階にあると考える一人である。文明の「終末論」が無縁の現在・・・人命を損なわない文明の進化は如何にあるべきか・・・一歩、止まって考える覚悟も必要だろう・・・しかし、それが、文明から離れる事でもなく、諦めることでもないと、考える。文明とは危険なものである。それを安全なものにしていく、時間と労力、costを惜しんではならない。反対よりも、拒否よりも、危険の回避の努力・・・これが、人類の人類たる所以であろう。

普天間以南の基地移転後の、沖縄再生のscheduleは・・・・

普天間以南の米軍地の返還がschedulingされた・・・昨日から今朝にかけてnewsを賑わしているが、恐らく明日(日曜日)の各局news・ワイドショーも、満載で賑わうことだろう・・・勿論、反政府的なmoodで・・・。

Schedulingなる言葉を我々は知らない。「予定」とは、未来を現在に移せば、そこに実現していることである。しかし、未来の「事」が、全て実現するとして考えるのは、ある種の愚かさである。何故、未来を予定・予想しなければならないのか・・・それは、「A」が実現する為に、今何が必要かを考え、まず、それを実現しなければならない。また、①その予定・「事」が実現した暁に、何が、現在と変わるのかが予想出来なければならない。②「今」が、その時に、如何なる変化を生じているのか・・・端的に言って、変化した時代、環境がどの様なものかへの推察であり、「予定」を要求した己の変化も視野になければならない・・・況や、そこに世代の継承が必要ならば、そこに「我」が存在していないのかも知れない・・・つまり、当該世代には預かり知らぬことになる可能性すらあるのである。

「予定」あるいはその前提の要求・要請は、その時点までの「過去」から生れた要請であり、その時点においてすら変化を続けて入る筈である。つまり、「計画書」が完成した時、その前提は、あるいは崩れているのかも知れないのである。

PERTの手法・・・工程管理手法の一つだが、納得はしても、どの様に使いこなせるのか・・・幾つかのprojectで、それらしい訓練は受けたが、全く習得はできなかった。しかし、何が、何処で(工程上)、どの様に関係しているのか・・・を理解して、作業を進捗させて行くらしい・・・ものであることは理解出来た・・・と、思っている。
地域の自治会の行事の準備を滞りなく行うために、幼稚ではあるが、概念的な合意を関係者にして頂くために利用して、多少は喜ばれたりもした。
つまり、何が何処まで進んだら、「オレの出番なのか・・・」が認知されるだけでも安心するものなのである。

XX年までに、何が行われるのか・・・返還の準備状況も説明されていない現在、返還が遅いの、真実性がないの・・・だと、疑心暗鬼を高ぶらせて、物事が進捗する筈がない。跡地が、どの様に津クァれるのか、その構想位はあるのだろう・・・だとしたら、その構想の一部でも、実現に向けて走り出している、あるいは、何時でも走りだせるのであれば、そのscheduleを今回の返還予定期日と照合させて、せめて具体的な苦情を発するべきではないか・・・。


基地がなくなる・・・跡地の利用については、政府が考えてくれるだろう・・・では、余りにも、intelligenceのない話である。沖縄県、あるいは対象の自治体・・・夫々のマスタープランがあれば、返還のnewsに合わせて、我々にも見える様な報道も望みたいものだと思う。
せめて、普天間の跡地・・・移転が行われた後の・・・に、如何なる計画があるのか。今でも、この基地の周辺には、人口が増えつつあるという。つまり、移転の補償費が増えつつあると言う事である。その歯止めが、どの時点でなされるのか・・・興味のあることではある。

朝鮮総連本部・建物の落札・・・朝鮮総連への協力か?

「拉致」・・・家族の焦りに乗じた色々な人物が暗躍する・・・胡散臭いのだが、メディアでは、半ば英雄扱いされている感が拭いされない。そして、いつの間にか、メディアから消える・・・いや、消えるのではなくて、ニュースの価値を失っているのだが・・・暗躍は続いているのだろう。メディアは、決して結論を報じることはない・・・つまり、プライバシーに触れる恐れが生じる直前で、姿を消すのである。そして、「事件」も、その当事者の悲しみも焦りも・・・雲散霧消する・・・。

朝鮮総連・中央本部の土地、建物を、宗教法人・最福寺池田恵法主が「落札」した。そして、それを、朝鮮総連が今後も続けて使う・・・報道のニュースである。庶民的には、「そんな馬鹿な・・・」と思うのだが、御当人の弁では、朝鮮総連を救う「英雄」気取りとも読める筋書きである。

宗教行事にも適した建物・・・とは云うのだが、朝鮮総連と合意の上で落札したのではないかと言う疑惑は払拭出来ない。また、メディアも、この額が適当・適正なのか、あるいは否かについてはダンマリ。どうも怪しい。安部総理とも近い人物と言うから、政治的意味合いが込められているのだろうか・・・だとしたら、結果を見るまでは沈黙を守る・・・が、etiquetteかとも思う。しかし・・・

朝鮮総連がなくなったら、それは宣戦布告と同じ・・・」とか、「日本は、韓国や米国と並ぶ敵国になる・・・もう既になっていると、私は思うのだが・・・」等の発言は、我々日本人に、北朝鮮の「君主」の前に跪けと言っているに等しいのではないのか。「金日成生誕百周年の勲章」を貰っているというから、不思議のない発言でもあるだろう。

訪問する度に、「拉致被害者」については、質問しているのだが、「解決済み」との返事が返ってくるだけだと述べるが・・・問題は、法主が、そう思っているのか、否か・・・ではないか。もし、北朝鮮が言うが如く、死亡というのであれば、盛大に祭壇を設けて・・・法主の負担で・・・盛大な、葬儀を行い、内外に、その経緯を知らしめると同時に、何故故に、無辜の日本人を留めたままにしたのか、何故に、その必要があったのかを考える機会を提供すべきではないのか・・・僧侶なら、葬儀を行う事に何の支障もないだろう。


与えられた名誉の裏側は「不名誉」であることは言を待たないが・・・その不名誉を、被害者の為に有効たらしめるのは「勇気」である。法主(ほっす)と言う身分が、立場が、どの様な価値を持つのか、宗教的な役割を持つのか・・・不動産を取得し、非人道的な国家戦略に協力する・・・それも、売国奴的な行動として・・・為のものではないだろう。釈迦の前に、弥陀の前に恥ずかしくないか、怖れを感じないのか・・・宗教法人には、国民として果たすべき「納税」の多くが免除されている。その意味を知らないのでもないだろう。自らが、日本と言う国家に保護され、その「資」は、日本国民が負担しているのだと言う事・・・時には思い出して欲しいものである。

石炭の再評価・・・文明は、後ずさりしない・・・!

原発の稼働が容易には再開できない事情から「石炭」の見直しが始まっている。今日の「ひるおび」を視聴しながら、再認識した。そもそも、石炭の衰退が、石油時代の到来だと騒がれ、エネルギー改革として、評価された裏には、余りにも無策な「石炭文明」への対応があったと、私は思う一人である。今、原発廃炉・絶滅の声が叫ばれるが、私は、もしこのまま原発が尻すぼみになると、一世紀後には、今日の石炭再評価の様なことが生じて、こればかりは、「再びの原発」とはならず、エネルギー貧困国に落ち込む可能性が大だろうと思う。

そもそも、文明とは、後づさりさせてはならないものである。交通機関であれ、医学であれ・・・その他諸々の文明全てが、その発祥においては、危険であり、危険な要素を多分に持っていたのである。それを知恵と工夫で手名付けた結果が、今日の文明の姿なのである。卑近な例が、汽車、電車のレール・・・この形になるまで、どれ程の技術開発があり、研究があり、加えて、車輪の科学とのコラボレーションがなされて来たか・・・危ないから止めるとの決断があったら、恐らく、人類は、未だに「歩く」ことしか知らなかったであろう。

福島の原発事故にしても、原発の本体がいきなり爆発を起こしたのではない。電源の喪失に対する準備の不備と対応の拙劣が、惹起したものである。つまり、シミュレーションと訓練の不足が招いた事故であり、そのシミュレーションの過程でなされるべき改善がなおざりにされていたことに、大きな瑕疵があったのである。勿論、今後は、これらの点に焦点が当てられ、新たな原発開発が行われるであろうが、事故に学んだことは大きい。石炭見直しも、その一つであり、新たな原発へ向けての研究も、ゆっくりと時間を掛けて行えば良いのである。


原発事故が、石炭見直しの一助となり、新たな石炭燃焼事術、灰の処理、一酸化炭素の排除と処理の技術への、新たな文明的発展が進展する・・・喜ばしきことである。
日本の炭坑で再開可能な所は少ないだろう。しかし、石炭を多量に埋蔵する原産国にとっては朗報だろう。また、それを運ぶ「船舶」の技術も促進されるし、安全でもある。そして、石油、原発の陰にあって目立たなかったが、地道な研究は進められていた、続けられていたらしい・・・私は、袖ヶ浦で、その一部を拝見させていただいたが・・・世界の先進国の中でも群を抜いているらしい・・・楽しみなことである。

乾燥した・民主党樽

水汲み、肥え汲み〜便所汲み・・・等々、担い棒の両端にある「桶」は、本質的には「樽」である。小学四年生の頃には、山の畑の細い坂道を上がる時は、前の方の桶の底が、坂道にぶっつかって、時々は「糞」を被ったり、「尿」の時は、ピチャピチャ跳ねて膝から下が濡れる・・・また、跳ねた尿が、坂道を濡らし、足を滑らせる原因になる・・・ひっくり返って、何度、頭から「糞尿」を被ったことか、回虫の研究者・藤田紘一郎先生に倣えば、今日「花粉症」に無縁なのは、このお陰であろう。ウンチ(糞)流れる川で遊ぶ、東南アジアの子供には、花粉症はおろか、アトピーも皆無であると言う。少し話が逸れた・・・

樽、桶・・・暫く使わないと、乾燥して使いものにならない。つまり「たが」が緩むのである。噴水の様に、あるいは散水車の様に、水が抜ければ、目的地に着いた時には、水は半減以下になる。勿論、足下はずぶ濡れになる。糞尿では、悲劇な状況・・・惨事と言うに等しい。

また一人、民主党から「漏れた」・・・「たが」の緩んだ桶(樽)は、「たが」を絞めるだけでは元に服さない。つまり、桶・樽を構成する「板」のひとつひとつの加工を要する・・・つまり、「円」の形・大きさが変わってしまってるのだから、乾燥した「樽(桶)」は、そのままでは復元不可能である。

ならば・・・如何にするか。漏れ続ける桶(樽)に、漏れ続ける水の量を補いながら、桶(樽)を構成する「木材」に水を浸透させ、乾燥前の状況に復させるだけである。

民主党からの離脱・・・離脱したのではなく、メンバーの一人一人が「乾燥状態」にあって、結果として「たが」が緩くなり、心ならずも外れてしまったのである。たとえ、今回の離脱者が、説得を聞いて復したにしても、本人を含む個々人が乾燥しているのであってみれば、水漏れは続くのであり、補給が間に合わない程に漏水していては、樽(桶)は、締らないままに、漏水を続けるだろう。


そこには、覆水盆に復せず・・・の例えが厳然として生きているのである。党内の個々人間で、論争が続いているのであれば、まだ救いがある。何故なら、個々人が乾燥していないと言う事であり、まだ「たが」の力は効いている・・・隣人同士が、仲間同士が争うのは自然であり、その状態がある限り、桶(樽)を構成する木材の感想はない、部分と部分の間に隙間はない。しかし、お互いが無関心を装う様になった時、桶(樽)の寿命は尽きる。「もう終わりだな・・・」と、私の感慨。

国民栄誉賞・・・

長嶋茂雄氏と松井秀喜氏に国民栄誉賞・・・銀座で「号外」を配る姿があった。「号外」を配るほどのものか・・・と、思う。松井秀喜・・・一郎程の成績は残していないのではないか。あるいは、日本プロ野球にどれ程の貢献をしたのか・・・単に、「巨人・大鵬・卵焼き」のノスタルジアに、世の老人どもが浮かれ、子供達は、漫画の英雄像に浮かれているのではないか・・・私などは、読売TVの商業的魂胆が見え隠れしているだけ、恐らく、老い先身近い「渡邊恒夫」への生前受賞に〜叶うはずもない〜に代わるものだろうと、少々深読みしている。

王さんが受賞した時には、納得もし、喜びもした・・・比較的若いアスリートが、その印象が残像として残っている間に、世に表彰される・・・。現役アスリートの励みにもなるだろうし、あるいは、学術、芸術、あるいは、工芸などの、日頃は、我々庶民にはポピュラーでない分野の功労者に光をあててくれることで、、我々愚衆の「教養」への一助にもなるかと思っていたが、今回の二人の受賞には、何の感激も生れない。長島茂雄氏について言えば、現役時代(監督時代を除く)を外しては受賞の対象にはならないのではないか・・・とも考える。松井秀喜氏について言えば、コメントがない。長島茂雄氏の受賞んぉ理由づけに過ぎない・・・歴史の中で、あるいは「恥」にならなければ良いが・・・と、心配するだけである・・・例えば、値しない人物に与えようとするとき、一つの標準として悪用される等・・・もっとも、引退後の彼の貢献については未知である。そのことへの期待としての受賞であれば、それはそれで「おめでとう・・・」と、言って上げたい。

「賞」の意味も、基準も我々には分からい「賞」である。人気に与えられる「賞」であるなら、それはそれで良い・・・目くじらを立てるものではないが、何がしか、その裏で、「政治」が蠢いていることを感じさせられるのは気味が悪い・・・多少の、自民党批判である。寧ろ、アフガニスタンに頑張る「中村哲氏」・・・あるいは、全ての賞を断っているのだと想像するが、彼の活動に寄与する様な「表彰」、彼の活動を国民が全面的に、具体的に助ける機運が生れる様な「表彰」・・・彼が、手にしなくても良い。ジャ−ナリズムがメディアがマスコミが騒がない「賞」もあっても良いのではないか。


得体の知れない俳優やお笑いタレントに贈られる「賞」、例えば、日本版オスカーなど・・・何の意味があるのか。また、地方の新聞の賞は、新聞の小さなコラムで紹介されるが、号外が出ることはない・・・何故なら、その事績を殆ど報道していないのだから・・・何か勘違いが、世間に蔓延しているのではないか。

先祖帰りか、民主党・・・・

「何でも反対・社会党」・・・こんな言葉が流行った時代もあった。今や、見る影もない社会党。「山が動いた!」一言が、今に思えば「断末魔」だった・・・。しかし、みすぼらしい惨めな姿を晒している現在を、当時の誰が予想したであろう・・・素晴らしい論客も輩出した・・・t、何人かの上品な顔を思い出せないでもない。しかし、常に、闘争丸出しの、闘争的言動に活発な活動家的指導者の、空虚な発言を売り物にして、最期が、土井たか子・・・辛光洙を担いで、自ら陥穽を掘り、その中に消えた。

民主党は、その様な社会党の「みだらさ・・・」を眺めながら誕生した、理性ある政党・・・当面は野党でも、近い将来に政権を握る政党になる事を目指し・・・見事、多少陰謀的な手法はあったが、一先ず政権を手中にした。しかし、直ぐに馬脚を現した。元・社会党のDNAが濃い過ぎる位に残っていた・・・それが菅直人であり、対岸に居るべき、少々脳の軽い鳩山由紀夫だった・・・小沢一郎の懸念は見事に的中、自らが追われることになった。そして、残ったのが「菅直人」・・・これでは、民主党がまともであろうはずがない。

すったもんだの上、野田佳彦を党首に据えたが、彼もまた、素人政治家・・・まだまだ、一党の党首足るべき資質は備えていなかった・・・ただ、多少の知性と清潔感はそなえていたが、必要なマキャベリ的な知恵は全くなかった・・・そして、評論家の海江田が党首になったが、民主党の党是(見え難い)と、本来の彼が匂わせていた論理との整合性はあるのだろうか・・・虚勢を張る為に、「0憎5減」の、三党合意であったはずの選挙法改正に反対の姿勢・・・倫理にも悖るのではないか。その理由が、「抜本的な改正にならない・・・云々」、そんなことは分かっている。まだまだ、長い議論が必要だから、当面は、これで凌ごう・・と、言う合意であったはず・・・自民党に、再可決をさせたいだけの、党利党略にしか過ぎない。やはり彼も、社会党・病原菌の保持者だったのだ・・・と、断じざるを得ない。


参議院の採決で、もし、造反者が出れば・・・民主党にとっては、致命的になるのではないか。民主党がやりたいことは、「維新の会」の策謀を崩壊させる選挙法の制定だと、私は思うが、そんなものが、一片の法律で可能なものか・・・寧ろ、何時でも共同歩調が取れる姿勢を、お互いに承認しあう与党的野党の存在としての民主党でなければならないのではないか・・・民主党が、自民党から距離を置き、維新の会から距離を置く・・・ならば、孤立しない道は、何処にあるのか・・・近視眼には見え難いものだろう。